(前ブログから転載)
ということで横須賀に行ってきました。疲れてるのに寝れねえとばかりに(忘れないうちに)書きます。なやんだけど元はちじょうさんを見たことについて書きます。
初めてまともに艦艇見にいって、除籍された艦が浮いてたけど、除籍艦のこのかくまでの魂のなさはこの瞬間まで思わなかった、みたいな というか明らかにもう生気ない様にびっくりした 垢跡と艦番号の消された跡、どんよりとした気配、同じ灰色のはずなのに色がさらに黒く見えるそんな感じ これ pic.twitter.com/dz8gHEM8GM
— つざき (@samishira) 2017年9月13日
本当にびっくりしました。めちゃくちゃどんよりしてた。なかば廃墟ですよね。
んー艦番号が消えるのも知ってたし、まあ必然整備されなくなるのもわかってましたが、本当にもう除籍!知らない!みたいな朽ち方でびびりました。一番びっくりしたのが港のど真ん中(あたり)にいたことかな…もっと端っこに係留されるとかだと思ってました。たまたまかもだけれど。
フォロワーさんのおひとりが、元しらねについて若干似たような感慨を抱いたといっていて、元しらねよりずっとタグボートのほうが存在感があるくらいだった、と言っているのが印象的だったのと、あるいは元しらねは標的艦(=役目がまだある)であり除籍艦の底知れぬ空虚っぷりとは違うと仰ってる方もいました。うーん面白い。ただ、私が元はちじょうを見て思ったのは、もし元しらねが同様の朽ち方をしているのなら、Twitterなどで皆さんがそろいもそろって「しらね」ではなく「元しらね」と呼んでいる気持ちがわかる気がしました。しらねは旗が下りた瞬間にもうなくなったし、その後をしらねと呼ぶのはあまりにしらねの栄光に対し失礼なのかな…と 思い ました(勝手な想像)。標的艦もある種の栄光なのかもしれないけど。でもそれはしらねの栄光ではなくべつのなにかの栄光なのかな。わからん。
船霊信仰の根源、「船には生霊がいる」云々みたいな考えがどう生まれたのかさっぱり理解できませんでした。けれど今日除籍艦を見て分かりました。すごい魂ってものが抜けた物体でした。ふねじゃなかった…。
除籍艦は除籍されたらもうフネじゃないんだな。
ちなみに「この瞬間まで思わなかった」は有島武郎の遺書からパクりました。「永い永い思い出のみ残る。今朝は有難う。兄の熱烈なる諌止にもかかわらず私達は行く。僕はこの挙を少しも悔いずただ十全の満足の中にある」。しらねもはちじょうもみんな満足の航海だったらいいですね。港の中央にどんとふねの遺物が置かれてるけれど、役目を終えたことを純粋に現役組に祝福されてるといい。
関係ないけれど同時に練習戦艦比叡がおじいちゃん呼ばわりされたのも、抜かれすぎて魂抜けた結果なんだろうなと察することができました。しかも比叡は元比叡じゃないし……。
フォロワーさんとご一緒でした。なにからなにまでいつもお世話になっていて申し訳ない…。ありがたいご縁です。
フォロワーさんは完全防熱防備だったのですが、私は一般公開などとにかく屋外に長期でいる経験のない引きこもりだったので色々服装を間違えましたね…経験だ…