朝(あした)には

雑感とか旅行とか。

海のダイアローグ「宇品」

 だいたいね、海というものに希望や未来みたいなのを見るのが嫌いなんです。とてもむしゃくしゃするんです。なんかの観念のはなしをされているような気もちになるんです。言葉のうえのあやのよう、頭のなかで屁理屈をこねくってまわしているようにしか思えないんです。
 幸せって言葉にする必要がないでしょ、だって感覚的なものだものね、ふわふわした綿あめのように膨れていて、中身がないようなものだものね。ものごとってのは、詳細に語れば語るほど重みと具体性がましてくるんです。わたしは重みと具体性のあるものを幸せとは呼ばないようにしてます。海は綺麗なもの、という言葉に込められた単純さと馬鹿っぽさと軽々しさ。ねえあなた、ほんとうに海というものをみたことある?そう、ならわたしと海のはなしをしましょうよ。
 おおきな船だなあ、って思ったのを憶えてます。貨客船って中がこまごまとしてて綺麗だっていうひともいるでしょ、あんなの嘘っぱちで、船がいちばん美しく見えるのは、仰ぎ見たときです。仰ぎ見るといってもすこしとおくから。はなれたところで見ると、ちょっとだけふねが斜めになっていて、ちょうどこう、淑女が首をかしげているみたいで……。ははあ、これに男たちはまいってしまうんだなぁ、と思ったのを憶えてます。とてもとてもきれいな船で……。名前が思い出せなくて、まいっちゃって。どうしても憶えていたかったのだけど、やっぱりむりでした。
 記憶も弔いの一つだけれど、美化と風化がかかっていくって意味では、そのことを憶えてることって、やっぱりできっこない。
 じゃあ忘れたほうがいいのかしら、って思います。あのね、故人の顔が残ってる写真より美しく思いだせるのって、その人に対する冒涜なんじゃないかしら、ってわたしは思っちゃうんです。その人そのものを掴めてるわけじゃ、ないですものね。じゃあじゃあ、じゃあ忘れないようにがんばってみようかしらね、とも思います。でもそんなの、ぜったいむりなんですよね。記憶には限りってものがあるからしかたない。それでこうやってみんな綿あめになるんです。中身がなくなってっちゃうんです。どんどん細部がしゃべれなくなっちゃって、単純で馬鹿っぽい幸せになっていきます。幸せだったもの、そんなものに。あのね、わたし、もうそのふねが綺麗だったことしか思い出せないんです。綺麗で素敵で、人間たちの幸せのかたちをしたふねとしか記憶してないんです。あなたは、死者を冒涜することをおそれてない?じゃあ、わたしはもうすこし海の話をしましょうか。
 わたしは、兵隊たちが船に乗るのをみるのがすきでした。わいわいしてて……静かなときよりおもしろかった。それだけのはなしなんですけれど……。往くさきはどこだか知っているけれど、あなたのいう「海は綺麗」といっしょで、わたしには怖い戦争でした。怖い戦争に往くのです。かれらは。船に乗って。わいわいと、無邪気に。
 ふねはねえ……。美しい淑女だっだ船はいま迷彩の色に化粧されてました。白じゃ海のうえで目立ちますものね。それにしまりがわるい。あんたね、戦争に必要なのは女じゃなくて男なんですよ、と言われたのをわたしは覚えてます。だって思わず言っちゃったんです、こんなに綺麗な淑女たちがもったいないわねえ、って……。戦争に必要なのは、おしろいではなく迷彩で……女でなくて男で……。一隻のうるわしき女性なんかなくて、そんなものどうでもいいから、名前なんていちいち覚えてなくっていいから、いっぱいの船をあつめてあつめて、戦場に引っ張ってかなきゃなんない。たくさんの船を。たくさんの男たちを乗せて……。
 ここにきた船は、まず牡蠣をおとさないとならないんです。船底にいっぱいついてて、速さが出なくなっちゃうんですよね。いっぱいの牡蠣殻をおとしてやりながら、ああ……この子たちはこんなによごれをつけて、こんなにいままでの海でがんばってやってきたんだなあ、って……思っちゃって。感じいっちゃって。船をきれいに仕上げながら……きれいな船に仕上げて、どこにいくのかっていうとやっぱり戦場なんです。男が必要とされている場所。おしろいではなく。たぶんそこで死んじゃうんです。みんな海で死んじゃうんだろうなあ、と思いながらひたすら、ずうっと落としてあげて……。
 船って、沈んじゃうということばと死んじゃうということばを、きちんと使いわけるんですよね。びっくりしました。「ぼくも沈んじゃうのかなあ……」って言ってたのを憶えてます。名前は忘れちゃったけど、ある子が。わたしには、それが「死んじゃう」としか思えなかった。でもね、沈んじゃうとこんどは漁礁の船生のはじまりですから。死んじゃうはただの綿あめだから……「だからさみしくないよ」っていってました。生きていた物質的証拠がね……。あるんだよ、ってね。それはすてきなことなんだよーって……。……なまえはねえ、なんだったかなあ……。記憶がね、みんな迷彩の灰色になっちゃって……。白黒に。おしろいの、やさしい白じゃありませんね。ほんとに、美しい船だったんですけど……美しかったはずの船です、そんなのです。
 返してくれませんか、とお願いされたこともあります。「わたしの娘を返してくださいよ、これでおまんま食べてるんですよ、生活してるんですよ」って……。「なによりも、ただ愛おしいんですよ、がんばってつくったんですよ、だから名前なんかつけてるんですよ、ただの道具にですよ」「輸送任務で沈められたかそうじゃないかもわからない夜は眠れないんですよ」「あなた、船の名前なんか気にしたことないでしょ」ありますとも、ただね、わたしはそれを覚えてられなかっただけなんです。ぜんぶ抱えきれなかっただけなんですよ。……わかってよ、っておもいました。傲慢だけど、思っちゃったんです。
 むしゃくしゃして言っちゃいました、「あのね、あなたは知らないだろうけど、わたしは覚えてます、三十年前を。信濃丸を。戦争に勝って誇らしかったでしょ、やりとげたと思ったんでしょ、これからもこうやってお国にご奉公しようと思ったんでしょ、だから、いまここにあなたの娘がいるんです」。牡蠣殻をいっぱいいっぱいおとしてるんです。戦争にいくために速さを上げてるんです、って……。……わたしには、船が死んじゃったとしか思えない……。……魚のすみかに、スキューバダイビングの遊び場になっているなんてね、もう船じゃない。だいたいね、戦没船なんて戦争の時に沈んじゃったんだね、って……そうやって、それだけで……。
 帰してやりたい、って思うときもありますよ、でもね、もう無理でしょ、もうあの船たちは船じゃないし、帰す場所もないし……。わたしにそんなこともできないし。太平洋ってどこですか?地図でしか知らない海なんです。シナだってじゅうぶん遠いんです。……魂だけでもね、あそこから離れてるといいなって思うんです。海の底から……離れてて。幸せがいっぱいで、美しかった記憶だけを抱えてどこか……空想の綺麗な海を旅して……ああ、ほらね、幸せなものになってしまった。綿あめに。これは冒涜なんです。パクパク食べて味わってるんです。死者のこと。悲しい顔して食べるとおいしいんです。
 ばんざいばんざーいって、いっぱいの小舟が軍隊の船をかこんで見送っててねえ、それを見て誇らしくなっちゃって、……たくさんの信濃丸を送ってやるんだって……思っちゃって。わたしは思っちゃって。思ってしまった。なにを言ってるんだからわからなくなっちゃった、そう、覚えてるわよって人をおどしましたけど、わたしは信濃丸のことが、誇らしかったことを覚えてます。人と一緒なんです。一緒に誇らしく思って……。だから、まるで裏切られちゃったと思ったのね。共犯者に。だってそうでしょ、わたしだけが送ったんじゃないもんね、私たちが一緒に送って……。いまさらなによ、なにを賢しらにしらばっくれてるのよってね、ええ……思っちゃって……。
 帰ってきた兵隊をみて、うん……地図でしか、……地図でしか知らなかったのよ、わたしねえ……だからね、だから知らなかったのよって、なにもわからなかったのよって、内航船の子って、どうやって大海原を横断したのか、聞いてみたかったのだけど。その時の気持ちを。海って広いなあって、思いのほか気持ちいいものね、素敵だもんねーって……。一回だけでもいいから、そう思っててくれたらいいって、思うんですけど。どうなのかわかんない。聞けなかったんです。わたしね、重さと具体性のあるものを幸せとは呼ばないけども、具体的なことを知ることも幸せだと思わないんですよ。怖い戦争は怖い戦争のままでよかったんです。あなたも海は綺麗だねってずうっと言っててください、知らなくていいこともあるもんね、そうね。海は、綺麗だものね。
 海のはなしをしたと思ったんですけど。船のはなしにね、なっちゃいました。いずれしても、どちらもおなじようなもんです。いまはわたしが持ってないもののはなしです。