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「その書斎では文学は人を救わない」:映画「お嬢さん」の切れ端感想メモ

パク・チャヌク「お嬢さん」では、文学や芸術は人を犠牲にして成り立っているんだなぁ…ということをここ数日考えている。

で、あの映画では人を犠牲にする側は男で、犠牲にされる側は女で、もう少し踏み込めば人を犠牲にする側は強者で、犠牲にされる側は弱者なんだな……という。
映画内ではそこまでスポットライトは当たっていなかったけど、あの映画では強者としての「日本」が浮き出ている。日本人貴族、日本人伯爵のふりをしている朝鮮人、日本人になりたい朝鮮人通訳(ここまでが男性)、朝鮮人の義理の叔父に抑圧されている日本人貴族の娘、日本人の名前を与えられている朝鮮人通訳の妻、朝鮮人女中(ここまでが女性)……という感じ。
そこに日本語(強者の言葉)と朝鮮語(弱者の言葉)の使い分けが出てきたりしていて面白い。日本人のヒロイン・秀子が話す言葉が朝鮮語なのは、ヒロインが5歳から朝鮮にいるからではなく「叔父に朗読させられる本が日本語だから」。叔父は芸術本(芸術って言っても春画っぽいやつ)が好きで、秀子は日本人貴族の前で、そのエロい本を叔父の書斎で朗読させられているのだ。叔父含む紳士諸君は美人の秀子がエロい単語を言うのを眺めて悦に浸って秀子を消費してるんだけど、別にこれはこの映画の、この話のこの朗読だけの話ではないんじゃないかな……と思う。質の良さ品のよさの違いだけで芸術なんて誰かをすり潰して、消費してナンボなんじゃないのかな。戦争映画を観てあ、このシーン…エモですな…と言っていることと何が違うのかな。衛生兵のウェイドって受けじゃない?とか言うし……。

叔父が本好きで、叔父に取り入っている日本人伯爵のふりをしている朝鮮人が絵描きなのは絶対に無視できない。彼らは強者であり、芸術を生み出していて、他人を犠牲にすることにたいしてなんの感慨も抱いていない。……と、美しいものを生み出すこととその犠牲という言葉を考えて思い出すのが「風立ちぬ」だったりする。「風立ちぬ」の二郎は、よくよく考えれば二郎は結核の菜穂子の前でタバコを吸うような薄情なヤツだし、忘れ物を届けられたあとの幻影を見たのは妙齢のお絹の後姿であって、幼い少女菜穂子はあくまでアウトオブ眼中だったし、瀕死の菜穂子に倒れてるところに駆け寄っていう言葉は「綺麗だよ、大好きだ」であって、相手を慮る言葉ではない。あの人は美しいものを造りたいし、美しいものが大好きなんだけど、その資源として犠牲となる社会の下層の人たちや、その人たちが国と一緒に滅ぶことはなんの感慨も抱いていない、はず。

「風立ちぬ」と「お嬢さん」の一番の違いは、前者には二郎が美しいものを求めたことの罰は描かれていないけど、後者では叔父と伯爵が相打ちになって、誰も知らない地下室で惨めにくたばるような罰が描かれているところだと思う。二郎は良いワインを飲んで終わりだけど、叔父と伯爵は最後の最後まで自分の欲(もうあのなにもない地下室では芸術ですらなかった)の話をして苦しんで死んでいった。どちらがいいとか悪いとかじゃないんだけど、いつも「お嬢さん」には高度な倫理性を感じる。「SAYURI」みたいに日本人女性が蝶々夫人じゃないし。

 

※20190723に書いた感想文