2021年2月21日
2021年2月21日
日本郵船歴史博物館 企画展「1960竣工 高度経済成長期を支えた貨物船」
①バナナかわいい。
②一番初めの解説が「戦争で海運企業は壊滅的な被害を受けた…しかも賠償も…………なし!!!死ぬかと思ったね♪」という例の流れだった。冗談抜きでそれほどヤバかったんだろうが……(たぶん私が当時の社長だったら怒りで脳卒中起こして倒れてるはず)
③お恥ずかしながら貨物船にも客室があることを知らなかった。
④船橋(ブリッジ)の配置によって違うそれぞれの呼称を知った。
福袋をオススメされちゃったね
①横須賀についたら雨だった。14、15時便あたりが秋晴れでよかったのでは?
②10時すぎに券売所に行ってもすでに行列。新しい券売所は初めてだった。
③まや!(まや~~~)
④汚れちまった悲しみに@そうりゅう型潜水艦
DD-110「たかなみ」
DD-112「まきなみ」
DD-116「てるづき」
DD-118「ふゆづき」
DD-152「やまぎり」
DDG-175「みょうこう」
DDG-179「まや」
DDH-181「ひゅうが」
ASR-404「ちよだ」
ASY-91「はしだて」
AMS-4305「えんしゅう」
「そうりゅう」型潜水艦
「おやしお」型潜水艦
「シーフレンド7」
(2020.9.27)
ところであの時代特有の引きつるような感覚って何なんだろう?と思う。絶望的に他者に優しくない世界というか、弱者が死んでいく感じ、剥き出た暴力性というか……。「あの時代」「引きつるような」というふわふわな言葉で表現したのは、無学なのでこの私の感覚に呼応する言葉を知らないからだ(多分この観念に何かしらの単語があるんだと思う)。
「グランド・ブダペスト・ホテル」の全体を覆うのは甘いピンクで、映画全体の美術がお菓子のパッケージに描かれた絵柄のようなコミカルさなんだけど、パッケージの中身の肝心のお菓子、いわゆる映画の主題は「20世紀という暴力の時代」についての話だった。だけどそのお菓子は丁寧に包まれているので露骨なファシズムを感じることはなかった。グスタヴの最期を除いて。あの最期の唐突感は本当に卑怯だった。おそらく幸せが崩れることのあっけなさも描きたかったのだと思う。
「グランド・ブダペスト・ホテル」や『アウステルリッツ』などの作品をみるたびに思い出すのが「日本人やドイツ人のような敗戦国民であれ、絶滅計画の対象とされた究極の被害者であったユダヤ人であれ、あるいは戦勝国に属してはいても甚大な被害を被った諸国民であれ、生き延びた人間は犠牲になった仲間や隣人に対する罪悪感や恥辱に苛まれた点では同じでした」*1という言葉だったりする。
よかった。こういう創作を描いてみたい。いつもこれ言ってるけど。
追記・
Amazonレビューを見ていたら、ズブロフカ共和国のモデルの国は何度も亡国になったポーランドなのでは、という指摘があった。どうだろう。撮影はドイツ、チェコやポーランドで行われているっぽい。東欧に詳しくないのでモデルの特定に至らない。
ところで上記の引用元の『外地巡礼』の作者は、『もっと知りたいポーランド』という著作でこういうことを書いたよ~と言っている。曰く「世界史は人類に対して、しばしば「ポーランド人」であることを強いてきた〔…〕故郷に対するノスタルジーに縛られている人間、異郷の地で厳しい疎外を経験させられていると感じる人間、徒党を組む同胞たちに翻弄されてしまう自分に苛立つ人間、そうした人々は誰もがいくらかは「ポーランド人」なのである」*2。
20世紀は離散の時代で、なんなら越境文学が生まれ得る時代だった。こういう故郷に対するノスタルジーが芸術の原動力になった時代でもあった。「グランド・ブダペスト・ホテル」に漂うある種のノスタルジー(ファシズムとか国が亡ぶとか)は日本人よりもヨーロッパの人々のほうが敏感だったのではないのかな。このノスタルジーを感じれるか否かで作品の見方は変わる気がする。
記事タイトルは『外地巡礼』で引用された島尾敏雄のポーランドへの言葉です。
(20200419観了)
※過去ブログより転載(20190428)
「アンダーグラウンド」には人生に大切なすべてことが詰まってます。割とマジでそう思う。
クストリッツァ映画は「アンダーグラウンド」しか観ていませんが、最新作「オン・ザ・ミルキー・ロード」のサントラがあまりに日本で発売しないので、セルビアから代理輸入で取り寄せたことがあります(今はiTunesで買えるので皆も買おう!)。本編はまだ観てない……。
クストリッツァ映画のリリース≧サントラのリリースと言っても過言ではない。
三時間映画なので、どこがどうでこうこうとはなかなか言えない。でも一番印象的なのはマルコ・ナタリア夫妻が(とりわけナタリアが)地下の人たちに「戦争(第二次世界大戦)は終わってない」と言って数十年も閉じこめたままであることで揉めて、ナタリアが「(嘘ではなく)真実が欲しい」というところです。マルコが結婚式を行う地下の人たちのために犬のエサを用意してるシーン。でも、結局ナタリアは自分のために真実が欲しいのであって、地下室の人たちに嘘をついていることにあまり罪悪感を感じてはいないのではないのかなぁとよく思っています。結局やってらんねーって地下室の人たちをダイナマイトで殺しちゃうし。惰性のあとの後始末の問題だった。
ナチスとユーゴスラビア共産党の過去の戦い(マルコ(は戦後に党の重鎮になっていた)がナタリアを助ける)を描いたプロパガンダ映画を撮るシーンもあるんだけど、その映画が超クソ映画で、俳優さんたちの大根演技の演技がすごいのであれだけでも見てほしいです。手榴弾が爆発する瞬間と、ドイツ兵役が倒れるタイミングがズレてる。ナタリア役が背負い投げでドイツ兵役をやっつけてる。あとマルコ役とナタリア役の人たちがニコニコしながらマルコとナタリアに近づくんだけど、ナタリアの「マジ?こいつが?こんなブスが私役なの??」な表情もすごい好き。あと、プロパガンダ映画のドイツ兵との戦闘と、実際のマルコとナタリア(とクロ)のドイツ兵とのやりとりの差がすごい。プロパガンダ映画なんだよ!って感じを出しています。
あとなによりもエンディングはすごい。仲間で憎しみあい、友人で奪いあい、兄弟で騙しあって殺しあい、お互い嘘をつき、すれ違い、やりきれなかったみんながみんな、湖のほとりの岸で結婚式の続きをしている。死んでしまった地下室の人たちも、戦争で死んだクロもお産で死んだその妻もいて、内戦で武器商人になった最中に殺されたナタリアとマルコも後から合流する。クロがボスで、マルコがその少し下っ端な友人で、ナタリアはクロに愛されてた女性なんだけど、まあそこらへんは三時間のうちにいろいろあって、マルコ夫妻は夫妻になっちゃっていた。クロは死ぬまでそのことは知らなかったんだけど、なぜかクロの息子の結婚式の続きの場では「友人の妻だ」と言って妻にナタリアを紹介している。車椅子だったナタリアの弟は踊れるようになっている。吃音症だった青年はなぜか流暢に話せるようになっている。多分なんだけどある種の天国なんだと思う。苦しみも嘆きも労苦もない。
最後は岸が割れて、宴会の場だけがゆるやかに湖の果てに流れて行ってしまうんだけど、あれは土地とか領土とか国家から遠く離れていくことのメタファーなのかなぁと思っています。