映画「アンダーグラウンド 完全版」を5時間ぶっ通しで観る会(2回目)
11月にやってました。最高でした。
通常版がお好きな方は這ってでも見るべきなのが完全版です。
映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」観た
すでに二回観に行きました。以下の文章は12月2日に書きました。noteにも投稿しています。
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日本国を指すときに「この国」というワードに逃げなかったな……というのと、「日本のために頑張りましょう!」精神が悪役の言葉になっていた点では、非常に特異で興味深い映画だったと感じる。
念のため言えば、悪いのは「日本のために頑張る」ことではなく、「日本のために頑張ることで犠牲者が生まれることを肯定するシステム」である。
映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」過去、あるいは一つの時代、あの戦争の時代の犠牲者を生むシステムからの決別と考えると面白い。同じ過ちは二度繰り返さない。
母親のように、亡き戦友のように他人に踏みつけられない人生を生きるために「強くある」ことを信条にしていた水木、が目指していたもの。それは日本の繁栄(1956年は高度経済成長期の初期、はじめの萌芽だった)の元での、自分の繁栄だった。
その「繁栄」の具体的内容とは、結局を極めれば、当主・時貞の言っていた良い服を着て、良い酒を飲んで、良い女と…であった。それが明白となった時に、彼はどのような選択をするのか、という話だった。
戦後の日本で成功する、ということを、なんとなく「幸せなこと」という概念でしか捉えきれないまま、水木は10年間がむしゃらに生きのびてきたのではなかろうか。意味もなくビンタされるあの世界よりはマシだと思ったはずだ。実際、ある意味でそれは正しかった。
が、水木の進もうとしていた世界は(彼の善性には明らかに反しながら)「誰もビンタをされない世界」ではなく、「ビンタされるのではなくビンタする側になる世界」だった。
ところで森崎和江は、伝統的社会から外れた植民地特有の人工的な近代空間、入植者ゆえに先祖・老人も居ない親子2世代家族ばかりだった、植民地朝鮮の出身であるがゆえに、(雑な言い方になるがありていにいえば)「日本の閉鎖的なムラ社会」が大嫌いだった。
彼女は、そこでは私個人の性格や人格は関係なく、「おくに」(≒出身地、所属)がどこなのかですべてが計られる空間だった、と言っている。
長崎の列島の先のほうにあるとある島、その島の人びとは島原の人から差別を受けていたので、遠方との結婚が出来ず、血族同士の結婚を繰り返している。あるとき訪ねた島でその現状を聞いた彼女が、それを形容して曰く「”おくに”はここで極まっていた」だった。彼女が嫌いな「身内根性」と、濃い血統を同種と見てていたのは興味深い。
彼女は近代日本の膨張政策の犠牲者に真摯であり、それを作った近代日本の、帝国主義の、犠牲者を生んだシステムを批判していた。
近親姦は、そのような犠牲者のシステムの象徴であったと思う。
あのシステムは映画「ゲゲゲの謎」の登場人物たちが不幸になる諸悪の根源だ。けれど不幸の根源だけが必要なら、正直必ずしも近親姦でなくともよかったのではないかと感じる(PG12指定の一因かもしれないし)。もっと妖怪のせいにしてみるとか。根本的に物語を組み替えるか、あるいはもう少し「アニメ映画らしい」無難な話にもできたのでは、と個人的には思う。
だがあの”人間の”因習は必要だった。なぜならあれは、国家の、戦争の、膨張主義の、あの時代の犠牲者を生んだメタファーになっていたからだ。
ここからは非常に言語化しづらくなるのだが、近代特有の暴力と性とは密接に結びついている。「思春期に文学に出会ったときに、差別=被差別と暴力、プレッシャー(あるいはストレス)とセクシュアリティには何か関係があるという感覚をつよく感じていました」というのは、ポストコロニアリズム研究者の西成彦の言葉であった(『現代詩手帖』2019年8月号)。
そのシステムが戦争帰りの水木の前に”再び”現れた。
その実行者が、甘言で「下れ」と迫る。お前は強くある側だという。それが「幸せなこと」なのだと。血を吸う側になるのだ。ビンタされたくなければビンタしなければならない。
しかし沙代の死、時弥の末路を見てしまった水木はそれができなかった。
それを斧で切り捨てた。
繰り返すが「強くある」こと、また誰かや自分を弱い「負け犬」と切り捨てるということは、作中での時貞のやっていたことであり、哭倉村、あるいはあの軍隊、もしかしたら軍隊を擁していた戦前の日本だった、かもしれなかった。
時貞に下って会社を持ち、物質的な富を得られる選択肢を提示された水木が選んだのは、その「過ちの繰り返し」「ビンタする側」ではなく斧を振り下ろし、その犠牲者を生むシステムからの決別だった。再び過ちは犯さないと誓った。
それをキャラクターの正しい行動として描くことで、制作陣の「水木しげる生誕100年記念作品」と来たる戦後80年への想いを感じた。戦場帰りはもういなくなりつつあるのだ。戦争を語った彼らの栄光と苦悩を語った人間、それをさらに語る世代の時代がやってくる。
これは父たちの栄光の話である。が、戦場での栄光ではないことに気づいただろうか?戦争「後」の栄光であるのは、時流に則れば極めて自然なのかもしれない。そこには、戦争そのものが遠くなった私たちへの世代の切り替わりがある。語った者を語った人々を語るということ。これは最後の現代パートで強く意識された主題だったと思う。
登場人物のきわめて個人的な理由や利害に寄った行動によって、その個人の運命や行く末が変わる、ことに付随して、その世界の旧体制的で害悪なシステムが崩壊したり変革されることを物語で描くことで、この現実世界に人間の善性を是とすることを訴える、という形式で作られた物語だったと思う。
このストーリーで提示されているのは戦争の教訓と人間の成長だ。
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以下、上記を書いた後~最近書いた文章です。
- 昔の日本の犠牲者を生むシステムの象徴として、その反復として描かれたのがあの因習であるのが興味深いし、とても分かるし、植民地朝鮮生まれの森崎和江の世界だし、きょうだい結婚の多かったエジプトの古代美術を「一種空虚な永遠的な静寂感」と形容した片岡啓治の言葉を示した原田武の世界だし、あれは永遠の地獄だ。
- 乙米にはおそらく幻治がいたんだろうし、丙江には誰かが居たんだろうし(心の裡にはまだ居るかもしれない)、庚子には時弥が居たし、そう考えたときに沙代には誰も居なかったんだよな~となる
- ゲ謎って森崎和江の世界観じゃない?と思うのだけど、いくらTwitterで検索しても、監督や脚本者名+森崎和江でGoogle検索してもそんな意見がまったく出てこないので
私の幻覚・幻視・幻想でゲゲゲという感じ
- 「それは近代化された生活と意識に立って、前近代的生活原理をものめずらしげに眺めやる目である。それを利用して近代化を擁して進めてきた者の持つ、特有の目である。いたましげに寄りそいつつ、自らの生活態度をくずそうとはしない市民的なまなざしである。私たちはからゆきさんに対応するとき、近代化自体への批判と対決をこめないかぎり、猟奇性の枠を越えない。なぜならば「からゆき」さんの存在は、日本の近代化のひずみそのものなのだから」『森崎和江コレクション3』「からゆきさんが抱いた世界」
- ゲ謎って森崎というか森崎コレクションの森崎では?説(?)を誰も採用していない、なぜなら森崎コレクションはそれほどメジャーな本ではないからだ よくあることだ
- 「探偵小説はあくまでも共同体の〈中心〉に位置するものが、〈周縁〉に位置するものとそれをめぐって生起する出来事を一方的に〈謎〉と定義し、名探偵が事件の〈謎〉を解くことによって、共同体の〈秩序〉を回復する物語」 『植民地を読む』孫引きで「植民地統治期〈台湾〉の探偵小説」これは気になる
- 哭倉村の美しかったものと誇りたかかったものの話も読みたいよ 東京のよそ者にはわからないものの話が…
神保町ブックフェスティバル/「アンダーグラウンド 4K デジタルリマスター版」
私的なブログ(ブログなんてみんな私的なのだけど)にも書きましたが、神保町ブックフェスティバル(2日目・10/29)と映画「アンダーグラウンド 4K デジタルリマスター版」鑑賞(10/31)に行きました。
軍事資金が薄めだったので厳選して三冊です。
kindleを導入してから、紙の価値が相対的に下がっているのもあります。イベントをこころから楽しめず残念……。
とはいえ、神保町ブックフェスティバルは「品薄」「長く倉庫にある」などの複合的理由によって「ニッチな濃ゆい本」が集まっている気がします。出涸らしというか、石焼ビビンバのおこげというか……。
『慰霊と顕彰の間』が一番の大穴。パラパラとめくったらとても面白そうでした。他のシリーズも欲しいです。
「アンダーグラウンド」は所々泣いてしまったんだけど(爆撃下でのワルツ、地下での結婚式を憧れて仰ぎ見るナタリアの表情、ドナウ川の果てへと消えていく幻想的な若き新郎新婦たち、あとやはり最後の2度目の結婚式、すべての祝福のシーン……)、泣いたのは感動というよりも何度も視聴していて「泣くポイント」を知っているから、だったかもしれない。もちろん感動しているから何度も観ているのだけど。どっちが鶏でどっちが卵なんだ。
この映画は結婚式でのナタリアとマルコの喧嘩あたり(つまり中盤)からすこしダレはじめる気がします。その点「アンダーグラウンド 完全版」はうまく物語が均されていて違和感がない。完全版の再上映も期待したい。完全版は本当に良い。
「さらば、わが愛/覇王別姫 4K」観た
なんとなく戦時下の京劇の映画くらいまでしか知らなかった。のですこし後半にはびっくりしてしまった。が、この映画の本番はその後半、文化大革命あたりの話だったようにも思える。
京劇も蝶衣(レスリー・チャン)美しいのだけど、その美しさ自体よりも、その美しい時代が過去のものとなり、新しく生まれた世代にも古き体制だと馬鹿にされ、あげつらわれ、だんだんと美しくないものが社会的に「美しい」ことになっていくさまが興味深かった。小四への体罰とか、根性論とか、完全にから回っている描写が印象深い。
世代間の断絶がすさまじく、その断絶への悲しみ、また共産主義体制への怒りを感じた。1993年公開、イギリス領香港での制作とのことだが、それでもここまで嫌悪感を描けるのは凄い。中国への好意と嫌悪感。また同じく日本と日本人への当たり前の嫌悪を発露、罵倒をするが人間的尊敬も忘れない。
今回は4Kバージョンの映画を観た。
タイトル:「さらば、わが愛/覇王別姫」サラバワガアイ/ハオウベッキ
監督:チェン・カイコー
出演:張國榮(レスリー・チャン)、張豊毅(チャン・フォンイー)、鞏俐(コン・リー)
公開:1993年
製作国:香港
上映時間:172分
追記2023/12/24
上記の「人間的尊敬」
- 漢奸裁判で、蝶衣が「日本軍将校の青木が生きていれば京劇を日本に持って帰っただろう」と言うシーンがあり、あれは映画監督のコスモポリタニズム的な見解なのかなと夢想していたのだが、そうではなく、ただ単に蝶衣は京劇以外のものが見えていなかっただけだろう。
- 蝶衣は京劇しかが見えておらず、同胞が罪無きままに大量に銃殺されたあの長い夜のことも、同胞の死体が軍犬に食わされていたことも見えておらず、京劇にしか生きていなかった、京劇の観客として単純に中華民国軍兵士は日本軍より劣っていたという失望と幻滅、そこには京劇の主人公としての視点しかないのだ。
- と思いました。